項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に並べたものである。 とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。
劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより斉で田栄らが背いています」との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを解いて、直ちに田栄らの討伐に向かった。
だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で殺害してしまった。范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力するだろうと見たのである。このために張良は逃亡して劉邦に仕えるようになり、劉邦は成の一族の信を探し出して、これを成信侯に封じた。張良はそれまでは劉邦にとって客将であったが、以後は正式に劉邦に仕えるようになったのである。
劉邦はその後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し、滎陽(河南省滎陽)で項羽軍に包囲された。
包囲戦の途中、儒者酈食其が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫達を殺して、その領地を奪ってしまいました。漢王陛下がその子孫を諸侯に封じれば、皆喜んで陛下の臣下になるでしょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。しかしその後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来て、劉邦は酈食其の策を張良に話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。張良は不可の理由を7つ挙げ、更に「かつての六国の遺臣達が陛下に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の土地を貰わんがためです。もし陛下が六国を復活させればみんな故郷へと帰ってそれぞれの主君に仕えるようになるでしょう。陛下は一体誰と天下をお取りになるおつもりですか。これが第8の理由です」と答え、劉邦は慌てて策を取り止めた。
紀元前203年、劉邦と項羽は滎陽の北の広武山で対陣したが、食料が切れたので、和睦して互いにその根拠地へと戻る事になった。
ここで張良は謀将・陳平と共に退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言し、劉邦はこれを受け入れ、同時に韓信と彭越の2人の武将に一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし韓信と彭越はやって来ず、劉邦は項羽軍に敗れた。張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしてないからです」と言い、劉邦もこれを認めて両者に対して多大な恩賞の約束をし、喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った。(垓下の戦い)
天下統一後 [編集]
遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(高祖)、家臣に対して恩賞を分配し始めた。張良は野戦の功績は1度も無かったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は辞退して「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、留侯となった。
高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はこれから決めようとしていた。ところがあちらこちらで家臣らが密談をしているところを目撃した。高祖が張良に彼らは何を話しているのかと聞いたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい人ばかりです。天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきたのです。彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆も知っている雍歯に先に恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言し、劉邦がその通りに雍歯の恩賞を発表すると、皆は安堵し、あちこちの密談はぴたりと止んだ。
洛陽を都にしようとしていた劉邦に対して劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した際には、張良も洛陽の短所と長安の利点を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。
神仙術 [編集]
張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って体を軽くし、神仙になろうとした。このことは本気で長生術を信じていたというよりも、統一後の高祖・呂雉による粛清を避ける意味もあったと思われる。
しかし、高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始める。既に皇太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)とその母・呂雉は危機感を抱いて張良に助言を求め、張良は劉邦が度々招聘に失敗した、高名な学者達即ち、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公を劉盈の師として招くように助言し、皇太子の変更は取り止められた。
高祖の死の9年後の紀元前186年に死去した。
末裔 [編集]
死後、子の不疑が留侯の地位を継いだ。張不疑は紀元前175年に不敬罪で侯を免じられて領地を没収された。その後、漢書高恵高后文功臣表によると、張良の玄孫の子である張千秋が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った。また後漢書文苑伝によると張良の後裔に文人の張超が出た。このほか、益州の人で、後漢の司徒張皓(張浩)、その子で広陵太守の張綱、その曾孫で蜀の車騎将軍の張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張皓伝・『三国志』張翼伝)。
評価 [編集]
張良の容姿は司馬遷曰く「婦人好女の如し」だと言う。その頭脳から出る策は軍事に留まらず、劉邦の事績のほぼ全ての領域に渡っており、「張良がいなかったら劉邦は天下を取れなかった。」と言うのは衆目の一致する所だろう。韓信・蕭何に於いても同じことが言え、これら英傑を使いこなした事が、自身の言う通り劉邦の偉大さと言える。家臣の偉大さが主君の偉大さを照らし、主君の偉大さが家臣の偉大さを照らすこの関係を、後世の人々は君臣関係の理想としてたびたび引き合いに出した。
張良の優れた軍師ぶりは日本にも伝わっており、本稿で用いられている肖像画以外にも、江戸時代に描かれた張良の肖像画が何枚も残っている。ただ、服装などの時代考証に関しては全く無視されている。
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